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お金持ちと庶民との違いって何?

定義上は、働かなくても勝手にお金を稼いでくれるモノ(土地とか、株とか、会社とか)を持っている人を資産家と呼ぶ。でも、お金持ちと資産家は、また違う。年収が3千万を越えるサラリーマンでも資産家では無いのだ。お金持ちをじゃあ、年収が三千万を越える人にしておこう。
彼らがアクセスできて私たちがアクセスできないものは何か?高級な食事にはアクセスできない、高等な教育にはアクセスできない(東大京大レベルだけど…)。でもその位なのだ。普通の庶民の様に、ビール飲んで、野球を応援したり、図書館にこもってベンヤミンよろしく文章を調べる分には、そんなに不都合はないのだ。


日本は階級社会化するっていう論調に良くある話

山本夜羽の日記より

2003-11-18 我が家を建てる。

ナイスな社会は東京都庁の夢を見るか?

昨年、宮台真司さんと対談した際、「アーキテクチャー」という言葉を教えてもらった。建築という言葉が、社会構造の「構築」という概念に変わる。社会の構造を建築物として捉え、法整備、インフラ整備、経済改革などを総合的に行う。どうも、国を動かしている中枢の人間は、理念としてこういう手法を目指しているようだ。秩序と統合と調和に満ちた理想社会。

何だよそれ。社会主義だの共産主義だのをさんざんこき下ろしておきながら、理想社会のイメージは似たり寄ったりじゃねーのか?違うのは厳密な階級社会と転覆不可能な強力な政治権力?いや、すばらしい。

監視カメラとか住基ネットとか盗聴法とか、日の丸君が代法とか出会い系サイト規制法とかサイバー犯罪条約だとか、何かおかしいなと思っていたが、なるほど、そーゆー「アーキテクチャー」がお好みなの?治安悪化キャンペーンに外国人排斥キャンペーン。ロリペド犯罪キャンペーンに貧乏人の児童虐待キャンペーン。不安と不審と恐怖を煽るだけ煽って、責任能力を低下させ、単純で情緒的な道徳を喧伝し、治安回復の大義の前に市民の自由を貢がせる。

それは良くわかる

彼の論調は、良くわかる。愚民化政策と社会の監視による階級の固定化って話。

同じような本に不平等社会日本(さよなら総中流)佐藤俊樹 / 中央公論社 / 00/06/25と言う本がある。ホワイトカラーで上層階級の人の息子も、ホワイトカラー上層階級で、社会階層が固定化しつつあるって話。 私の様な最下層(美術家なんて本質的には単なる道化なので、最下層でない訳がない)は、やはり階級が固定化した社会は、生き辛いと思う。生まれの階層が、死ぬまで続くのは、何となく良くない様に感じる。ってのは、一般的な感情として良くわかる。そして、そのことはマスコミが煽る論調にもなる。曰く、階級が固定化するのは良くないと。

ところで上層部(上流階級)はどう考えてるの?

良くわからないのは、上流階級はどうして、貧富の差を拡大しようと思うのか?一つには、自分の子供にとって有利だという感情。これは理解できる。誰だって自分の子供は可愛い。出来れば楽させたいって思う。自分自身も豊かな暮らしが続けられるなら、こんなに嬉しいことはないって考えるのも納得できる。 けれども、よく考えて見よう。日本にいて上流階級でいることは、とてつもなく大変で、生き辛い。真綿で包んだ拷問の様なものだ。

結論を先に言うなら、リベラルアーツもノブリスオブリュージュも死に絶えたこの国で、上流階級でいることは、地獄だと思う。

子供の頃、お金持ちになったらって考えたことは無いだろうか?お金持ちになったら何したい?大きな家、食べきれない食べ物、高級車、文化的な生活。或いは、ハーレム?子供だったらプール一杯のプリンとか、たわいもないことを考えるだろう。(このうち、食べきれないほどの食べ物ってのはもはや庶民でも手に入れている。) では、それらのモノが既にある上流階級の子供たちは、何を欲しがるだろう? まだ、子供の内は良い。けれども、20代になったら?クラブ借り切ってバカ騒ぎ?羽柴秀吉みたいに、青森にホワイトハウス建てちゃう?別に何処ぞの土地成金みたいに、天守閣建てても良いけど。
今、現在普通のセンスを持った若者は、成金を嫌う。特にガハハ親父みたいな成金は、格好悪いと思われている。特に上流階級の子となると、洗練されたお金の使い方を、しなければ格好悪いと言われるだろう。

教養なんて既にトリビアの泉化している

そして、昔、上流階級にだけ特権的にアクセスすることを許されていた回路は、既に大衆のモノとなっている。美術館にも、コンサートホールにも、料亭にすら、大衆がうじゃうじゃいる。本当の意味で上流階級にしかアクセスできない情報や、場所などは、ほとんど無いのでは無いだろうか?(海外のプライベートビーチならちょこっとあるかも知れないけれど)。上流階級であるためには、自分たちしかアクセスできない情報や場所を、持つのが一番だし、それが大衆との差別化の役割を果たす。たとえば、ソ連時代の共産党幹部だけが、ポルノフィルムを見られた様に。けれども、全てが大衆仕様に、様変わりしてしまったこの日本で、特権階級のみがアクセスできるものは本当にあるのだろうか?桂離宮?親子連れがビニールシート敷いて、弁当食ってるぞ。
つまり、上流階級は、後ろから大衆によるもの凄い追い上げを食らっているのだ。 と言って、上流階級に流行の先端を切り開く力はもはや無い。上流階級が、流行の先端であり発信地であるとか信じているのは、ノータリンな女性週刊誌ぐらいだ。流行は、圧倒的に大衆が作り出しているし、下手すると、それより下だと見なされていたサブカルチャーが既に、文化の担い手と見なされる状況になっている。
今や、上流階級がいられる場所なんてほんとに狭いのだ。ヨーロッパの上流階級はそこら辺がわかっているので、オペラにお金を使う。個人で美術館を作ろうとする。それが自分たちの最後の切り札になるってわかっているから。最後に残るのは、リベラルアーツ、教養、古典なのだ。それぐらいしか、自分の存在価値を証明できないから。
しかし、日本での古典の扱いとか、もはや珍獣並みだ。大衆は、文楽がわからなくても平気だ。能がわからなくても平気だ。日本舞踊とか、凄い形で大衆化していても平気だ。全部、開国と戦後で捨ててきたから。そんなのに入れ込むなんて一部の好事家のすることだって平気で思われている。
教養や古典なんて、単なる物知り博士の雑学クイズと同じような扱いなのだ。こんなの上流階級がいくら知っていたところで、尊敬されることは無い。加えて、上流階級にそれらの古典を保護しようって機運も見られない。日本の芸妓は、接待の道具に使われて、壊滅的な打撃を受けたと聞く。誰も身銭を切らない芸事はダメになるし、経費で落ちる遊びなど、遊びの内に入らないからだ。しかも加えて、不況で、その客も減ったとなると、芸妓自体が、食べていけない。昔の金持ちが、パトロンになった様に、今の金持ちはパトロンになることはない。自分たちで、古典の芽を摘んでいる。
上に見た様にリベラルアーツは、無いと言っていい。

貴族でおじゃる

同様に、ノブレスオブリュージュも無い。無いというか、感覚として解らないだろう。Noblesse Obligeとは、高貴なるものは、常人より重い責任を負うってことだ。
昔、オックスフォードの学生が、いざ戦争になったときに、最初に突撃した様に、高貴なる身分には、自然と果たさねばならぬ義務が生ずると言う感覚だ。
このページの解説などひどいものだ。 と言うか、この校長の挙げている五項目全て違うというすさまじさだ。多分この校長は、欧米人が持つフェアネスの感覚も、ノブリスオブリューズも解らないと思う。
だって、貴族がいなくなってしまったんですもの。戦前は、まだ少しいた。金持ちの子弟が、大学進学か何かで上京して、貧乏人の群れを見て、びびって共産党に入党しちゃうってパターン。あれは、一応ノブリスオブリュージュの発露だと思う。 今は、そういう目に見える格差が無いだけに、きついかも知れない。 一方では、貴族教育を否定され、かつ、貧困が隠蔽されてしまうと、ノブリスオブリュージュの育てようがない。 そして、思うにノブリスオブリュージュも、リベラルアーツ同様、上流階級自身が、大衆と差別化するために、作りだし自分に科した。そうしないと大衆と自分との差異は、大衆に比べてちょっと金持ちしか残らないから。そして、悲しいかなちょっと金持ちくらいでは、人から尊敬されない。

尊敬されたい人々

上に書いた様に、いくらものに囲まれても、その環境が当たり前の2世以降にしてみれば、もはや、モノがたくさんある状況に飽きている。じゃあ、2世以降の金持ちが欲しがるものは何か?それは、大衆からの尊敬の念だ。 心理学者のマズローが、安全や食の欲望が満たされると、自己実現の欲望が芽生えると述べたが、それと同様に人から尊敬されたいという欲望も芽生える。 人から尊敬を払ってもらうためには、結局自分がひとかどの人間にならなければならない。けれども悲しいかな日本には、リベラルアーツもノブリスオブリュージュもない。上流階級は、大衆から尊敬を払ってもらえないので、出来ることと言えば二つ、お金をばらまくか、サロンに閉じこもって傷をなめあうかの二つしか選択肢が無いわけだ。 しかし、二つとも寒々しいのは目に見えている。九官鳥が、いくら「偉い」とか「凄い」とか繰り返し喋っても、いい気がしない様に、お金をばらまいて、ほめられても、何となく嬉しくはない(成金はバカだからだまされるけど、2世にはもうきついだろう。たまに気づかない人もいるけど)。同様に、サロン内で互いに褒めあう、生産性の無さにも気が滅入るだろう。 そうなると、新興の成金をうまく言いくるめて、サロンに入れたうえ、その田舎モノぶり加減(自分たちより金回り良いのに)を笑うという屈折した暇つぶししか出来なくなる。しかも階級を固定化してしまうとそういう新しい血もなかなか入ってこない。

閉塞する上流

一部で、危惧されている金持ちのコロニー(城壁で囲まれた都市)などその傾向に、ますます拍車がかかる。城壁の中では、奇妙な閉塞感が漂い、外では最悪の治安の中、ホームレスが楽しげに、酒盛りしている。上流階級の人間は、やがて自壊を始める。 それは、新興の郊外住宅が、気持ちの悪い同調圧力に支配されるのと同じ、空気に支配される。
左翼は、脳天気に階級化された社会を批判する。けれども、いったん大衆化された社会に、再び、上流階級が出現したとき、それは昔の階級社会なのだろうか?もはや愚民は、セレブが、文化の先端でも政治の先端でもなく、単なる金持ちの亜種であると、理解できる程度には賢い。
アメリカの様な、金持ちの城壁都市を作るには、日本はあまりにも狭い(地理的に、そして精神的に)。階級が固定化した社会は、下の階級にも、活力が無いが、不思議なことに保護された上流階級も徐々に閉塞していく。
そして、下の階級が、諦めて勝手に呑気に行き始めた頃、上流階級は、追いつめられている。


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Last-modified: 2015-02-01 (日) 14:38:24 (3542d)