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映画ナウシカ2としてのゲド戦記

ゲド戦記アニメ化

今度のジブリは、ゲド戦記をアニメ化するみたいだ。宮崎駿は、昔からゲド戦記を映像化したいと望んでいたと聞いたことがあったので、ついに作るんだ〜という感想を持った。 その話を聞いて考えたのは、宮崎駿は、ゲド戦記を作ることで、映画版ナウシカの続きを描こうとしているのではないかと言うことだ。

コミック版ナウシカ、映画版ナウシカ(ネタバレ有り)

ナウシカには、二つの流れがある。映画版のナウシカ(1984年公開)と、月刊アニメージュに連載されていた漫画版ナウシカ(1982-1994年連載)の二つだ。有名なのは、映画版ナウシカだが、漫画版ナウシカと映画版ナウシカは、多くの点で異なっている。特に大きいのは、腐海の性格と、青き清浄の地の意味合いである。映画版では、青き清浄の地は単なる理想郷だが、漫画版では、悲劇的な意味での理想郷だ。漫画版では、青き清浄の地に、ナウシカや風の谷の住民はたどり着けない。たどり着けば血を噴いて死んでしまう事が明らかにされる。全てが浄化された世界では、ナウシカやその子孫は、滅亡せざるを得ない。つまり、青き清浄の地は、ユートピアだが、ディストピアでもあるのだ。 映画版のナウシカではその様な話は、出てこず。その手前で話が終わってしまっている。

死者の国と、ユートピア(ネタバレあり)

同じ話は、ゲド戦記五巻でも展開される。その中で、死者の国は、ユートピアとして作られたという話が明らかにされる。セペル曰く

「川があり、山があり、美しい都市があり、そしてそこに何の悩みも苦しみもなく、人は変えられることなく、他者を変えることなく永遠に生き続ける…」として、死者の国は作られた。

ある意味、理想郷である。死んでから永遠に生き続ける死者の国に行くのだ。もはや悩みも苦しみも無い場所へ。

そして、いざその国を作ってしまうと、そこは確かに理想郷であったが、同時に地獄でもあった。植物は生えず、風は吹かず、ほこりっぽい美しい都市で、死者達は、ただふらふらと生き続ける世界。

ユートピアへの道(ネタバレ有り)

その様なユートピアの場所(青き清浄の地、死者の国)を、ナウシカもゲドも否定する。ナウシカは、青き清浄の地へ至るのに必要な墓所を焼き払い、ゲド達も、死者の国の石垣を壊してしまう(死者の国は、魔法の力の源泉でもあった)。漫画版ナウシカも、ゲド戦記4-5巻も同じテーマを巡って物語が進む。ユートピアとしての、青き清浄の地、死者の国だ。そのため、漫画版ナウシカでは墓所が、ゲドでは呼び出しの長が大きな意味を持つことになるのだ。墓所も、呼び出しの長も、ユートピアへの道を重んじ、変化を怖れる。彼らは、黙って進めば、ユートピアへ通じる道があるのに、どうして、ナウシカやゲドがその道をわざわざ壊そうとするのか理解できない。

映画版ナウシカその後、としてのゲド戦記

宮崎駿は、多分、映画版ナウシカでは中途半端にしか描けなかった「青き清浄の地」を「死者の国」として描くつもりなのではないだろうか?上に書いたように、青き清浄の地も、死者の国も悲劇的なユートピアとして描かれている。そのユートピアに対してどの様に主人公が向き合うのかという点が、映画で描かれていれば、大変面白い映画になるだろう。

あ、監督は息子さんでしたね。

ちなみに、ユートピアとしてのナウシカ論は、&amazon(4943983871);に詳しい。コミックを読むとナウシカの印象は大分変わると思う。&amazon(419210010X);


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Last-modified: 2015-02-01 (日) 14:38:23 (933d)