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美醜の話と政治

ヒトラー最後の12日間

ヒトラー最後の12日間を見に行った。割と史実を追っていて、普通の人間としてのヒトラーやナチを描こうとしていた気がする。軍人達は、状況が最悪なことをちゃんと理解していて、何度も降伏や撤退の進言をしている。彼が敗戦の雰囲気が濃厚な中で、部下からの降伏の進言を拒み続けた。なぜなら、それは彼の美学に反するから。美醜の問題は、普通の政治の場面では出てこない。多分、美醜の問題が、表に現れるのは、多分それが負け戦の場面だからだろう。勝って「行け行け、ドンドン」の場面では、美学の話は出てこない。むしろ効率だったり、善悪だったりという価値判断が重みを持つ。しかし、負け戦の場面では、余り効率って話は出てこない(「効率的に負ける」って誰も言わないでしょ)。けれど、「降伏よりも名誉の死を選ぶ」と言う言葉は善悪や効率よりも、美学の問題として個々人の前に現れてくる。

美醜の話

何で、美醜の話をしたかというと、鈴木健さんのエントリー「小泉純一郎と『無能の美』」が面白かったから。彼のエントリーを短くまとめるなら、小泉さんが、選挙で大勝したのは、「真偽」「善悪」ではなく「美醜」を争点としたからだ。彼はこう言っている。

小泉自民党はなぜ総選挙に勝ったか。それは三系のうち、究極においては美が最強だからである。亀井は醜く小泉は美しい。事は真=偽、善=悪の問題ではなかったのである.

多分、それはそうだと思う。誰が一番「美醜」として美しかったかと言えば、小泉さんだろう。それは単に外見の話ではなくて、ドラマとして美しさや悲哀ってものをうまく醸し出していたと思う。そして、多くの国民が彼を選んだのは、何となく今の状況が「負け戦」っぽいからなのだろう。

もし、日本が経済的に順調で、「行け行けドンドン」みたいな雰囲気だったら、こんなに大勝しなかったのではないだろうか。上で書いたように、美醜の問題が強く作用するのは、勝っているときではなくて負けている時だからだ。

別に誰とも戦ってないじゃない?って多くの人は思うかも知れない。確かに明確な敵みたいなものは、日本を見回してみてもどこにもいない。むしろ多くの人が共有しているのは、負け戦の気分なのかも知れない。どうやら「二極化」しそうだとか、なんか「社会保障費が大変なことになってる」とか、芳しくない雰囲気が漂っている中で、「理念の為に死んでも良い」とか叫ぶ人相手に、「合理的に考えればうんぬん…」みたいな訴えは、あまりに分が悪い。

単純に、権力が空虚だというだけでは、今回の説明にはならないのかも知れない。天皇が空虚であると論じたのはバルトだけど、だからといって総理までも空虚である必要は無い。むしろ、天皇が空虚であるが故に、総理は、ばりばりに実務の人であるべきだ。今回、面白いのは、天皇が空虚なのと同時に、首相はある種、諦観をしているという事なのかも知れない(負け戦だから)。

政治と美醜の関係が何となく気持ち悪いのは、政治家は本来真=偽の人で、美醜は他の人が担っていたからだ。担っていたのは、宮廷に居た「ピエロ」だ。ピエロって言ってもぴんと来ないかも知れない。コミック版のナウシカに出てくるピエロを思い浮かべると良いかも知れない。ピエロは最高権力者(国王)を、唯一バカに出来る存在として描かれている。ピエロは、宮廷に於いて何の権力も与えられていない。むしろ最下層のものとして、蔑まれている。それ故に国王をバカに出来る特殊な地位につける。他の官僚が、国王をバカにすれば即刻死刑だろうが、ピエロが嘲笑するのは大目に見られるのだ。それは、ピエロが、最下層の人間であり、政治のルールの外側つまり、美醜を扱うものだと見なされているからだ。

もし、鈴木さんが言うように、美醜の問題がフォーカスされたとしたら、それは今回の選挙が、政治の問題と言うよりは、負け方の問題がテーマになっていたからかも知れない。そして今回は、政治じゃないものの戦い(つまり、美醜をかけての戦い)だったのかも知れない

Category: [] - 2005-09-23 21:37:42

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Last-modified: 2015-02-01 (日) 14:38:24 (3364d)